東北
プロジェクトストーリー

MISSION

東北の街と海岸防災林を再生せよ

東北に住む多くの人々の生活を一変させた東日本大震災。 物林は自社の持つ知識と経験、そしてネットワークを使って 復興に寄与する活動を展開するべく全社横断的なプロジェクトチームを編成した。

1.戦後最大の自然災害
 2011年3月11日14時46分、仙台市の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とするマグニチュード9.0という観測史上最大規模の地震が発生。宮城県栗原市で震度7、岩手県から千葉県の広い範囲で震度6弱以上の強い揺れを観測した。この地震によって太平洋沿岸では巨大な津波が起こり、青森県から千葉県の6県で計561㎢を超える国土が浸水。多くの人々の生命や財産を奪い、社会基盤を破壊する災害をもたらした。
2.特命チームの結成
 東日本大震災発生の数か月後、物林内部では「東北復興支援本部」の立ち上げに向けた動きが活発化していた。物林の展開する木材営業部門と建設事業部門の各部の機能を集結した「オール物林」で、東北の復興に寄与したいと考えたからだ。
 特命チームによる現地調査を経て、2012年から東北での活動を本格化させた。当初は、物林が最も得意とする木材を軸とした建設資材の調達で、復興事業に参加しようと計画していたという。しかし、現地で最も深刻だったのは技術者・作業員の不足だった。そこで物林は、材料販売だけではなく、施工業者として「材工」での対応を決意。北海道の非住宅事業部と連携し、大工班に監督員を加えた、施工及び施工管理体制の構築を急いだ。
3.地元企業との建設事業
 被災地の復興には「家作り」「コミュニティ作り」「地域作り」という3段階がある。震災から間もない頃は、災害公営住宅の建設が目下の懸案事項であり、物林も地元企業と共に各地の住宅建設に携わった。その戸数は2016年12月時点で300戸以上にも上る。
 被災地域における災害公営住宅建設の目途が立ち始めた頃、次は「コミュニティ作り」の計画が具体化してきた。ここでも、物林はこれまでに培ってきたネットワークと大断面集成材の建設技術を活かし、数多くの公民館や幼稚園、コミュニティ施設などの公共木造施設の建設に携わった。

・東北で最初に建てられた災害公営住宅「ダウ長屋」(福島県相馬市)

資材調達の面から、地元建設会社をサポートした。

・福島産材を用いた2×4で建てた災害公営住宅「明神前災害公営住宅」(福島県相馬市)

地元建設会社と2社でJVを結成、設計施工にて対応。大手ハウスメーカーらとのコンペティションに挑んだ結果、見事に元請受注に成功した。

4.地元で「足りない」を補う
東北建設事業部 部長
 東北建設事業部(旧:東北復興事業部)の勝田幸仁朗は、「物林は地元で足りないを補うスタンス」で事業を展開してきたと語る。
「物林は資材調達から設計、建設工事、管理と、一通りの体制を整えた。しかし、これは地元と競合するのではなく、地元企業が手の回らない業種をカバーするのが目的で地元と協働するのが物林の方針である」
 この姿勢を貫くことで、物林は東北で独自の色を出すことができ、さまざまな場面で数多くの地元企業から「声のかかる環境」を作れたという。また、物林も積極的に自社の強みを生かせる場に顔を出し、地道な地盤固めを行った。

・物林が関わった公営建物の内観

公営建物では北海道の当社出資工場である「オホーツクウッドピア」、「北海道プレカットセンター」で製作・加工した大断面集成材も採用された。

5.壊滅した海岸防災林の再生
 今回の地震に伴う大津波では、海岸防災林も甚大な被害を受けた。多くの木が損失、流出しただけでなく、残った立木も海水を被ったことで状態が悪化しており、各地で壊滅的な有様となった。
 海岸防災林は、飛砂や塩害などから近隣の農地や住宅を守り、津波や高潮の勢いを弱めるなどの効果を発揮する。今回の大津波でも、津波エネルギーの減衰や到達時間の遅延、漂流物の捕捉など、海岸防災林は各所で被害の軽減に役立った。
 日常的な暮らしの中でも、海岸防災林は空気の浄化や騒音の緩和などコミュニティの緩衝材という役割を果たており、名所や憩いの場として人々に親しまれてきたエリアも数多い。海岸防災林を再生し、失われた機能を取り戻すことは、被災地の復興には不可欠だった。

・被災当初の海岸防災林の様子

多くの木が流され、数少ない木しか残らなかった。地盤は浸食され窪みが目立つ。浜には瓦礫などの漂流物も散見できる。

6.木のプロが行う植林
 物林は創業期より長きにわたり林業・森林再生に携わってきた会社であり、過去には中国の西部地区にある砂漠化の進む地域(寧夏回族自治区)で数千ヘクタールという土地の本格的な砂漠緑化(砂防植林)に取り組んだ経験もある。東北復興支援事業の立ち上げ当初から、海岸防災林の再生に物林の技術力と経験を活かしたいという思いがあった。
 防災林は大震災で失われた広大な松林の跡地に膨大な数の木を植えるため、1本当りの植林費用を抑えなければいけない。そういったなか、木のプロとしての仕事をしようと現場では工夫が重ねられた。10年後、20年後を想像しながら、真っ直ぐに等間隔で植えていく。ただ単に丁寧に行うのではなく、貴重な苗木を何としても活着させなくてはならない。専門家として効率を追求した施工方法で、東北被災3県の太平洋岸に200km続く壊滅した砂防林の再生に取り組んでいる。

・海岸防災林の再生事業 - 防風柵に囲われた中で等間隔に植林を行う。

7.木という生き物を扱う企業として
 東北で数多くの現場を指揮した荒木正也は「生き物を扱う技術者という想いを施工管理に込めた」と語る。
 「造園とは異なり、自然の営みの中で育てていくため、植えたうちの何本かが枯れるのは仕方がないというのが防災林の考え方だ。しかし、枯損率をなるべく抑えるように作業に工夫を加えている。また、海岸防災林は地元の人々にとっては故郷の大事な景観の一つで、植林には地元の人々も参加してくれている。我々は自分達で植えるだけではなく、プロとして地元ボランティアに技術支援も行う。被害は千葉県から青森県まで続く太平洋海岸のグリーンベルトにも及んでおり、すべての松林の再生に少しでも寄与したい」
 地元ボランティアへの技術支援では、芝生の約15倍もの繁殖性を持つイワダレソウを植え付け、地面を草で覆う方法を提案した。地面からの水分の蒸発を抑えることで、育成環境の安定性を向上させるためである。

・地元の人々も参加して行う再生プロジェクト

海岸防災林の再生には専門業者の他に、ボランティアで企業やNPO、地元の人々などが参加している。

8.東北の未来に向けて
 竣工したばかりの建造物は真新しく、植えられたばかりの苗木は小さい。しかし、3.11の痕跡は復興作業によって、日々、着実に姿を変えている。10年、20年と時が経てば、真新しかった建造物は使い込まれて地元の一部となり、小さな苗木の集まりは林となって、自然の営みを育む緑の場所へと変化していく。
 勝田は「物林に声がかかる限り、最後まで復興事業を続ける」と語る。復興事業というキーワードから生まれた物林と地元企業の新しいネットワークも、時と共に成長と進化を遂げ、復興や東北という枠を超えた活動に発展していくだろう――。

物林の東北での動き

2011年

3月東日本大震災が発生

8月物林の木材・建設事業を被災地域に役立てる復興支援事業の模索が始まる。

9月外部有識者を加えた特命調査チームが被災3県の現地調査を開始する。

12月物林の持つノウハウで現地の資材調達力や施工能力などの不足をサポートできると判断し、復興支援本部を正式に立ち上げる。

2012年

1月東北最初の災害公営住宅(連棟タイプ)の建設事業に資材調達で参画する。

4月仙台市内に事務所を開設。

5月福島県相双地区の災害公営住宅(戸建タイプ)において、専門工事事業者として参加。材工での受注を始める。

7月JKグループでの復興支援の取り組みが本格化。JKグループ企業8社からなるチームJKを発足させ、東北地区の社員250人との連携を開始。

2013年

3月災害公営住宅新築計画(100棟)において、設計協力。

10月UR初めての木造戸建災害公営住宅を受注。

2014年

12月栗原市の幼保一体施設の建設に参画。これ以降、非住宅案件の事業にも数多く参加することになる。

2015年

10月事業部名を、東北復興支援本部から東北復興事業部に変更。

2018年

4月事業部名を、東北復興事業部から東北建設事業部に変更。